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Makiko Mizuno
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漢字に関わるジレンマ
漢字に関わるジレンマ

 先日、東京で裁判員裁判における法廷通訳をテーマに、研修会が行われた。私も主催者側のコア・メンバーだった。この研修の1日目は模擬法廷だったが、中国語を話す被告人という設定で、中国語の通訳人が付いた。 

 通訳人役を務めたのは台湾出身の女性だったが、彼女は日本での生活が非常に長く、ほとんど日本人と変わらないくらいの日本語の能力がある。司法通訳人としても大ベテランで、日本では1,2を争う実力の持ち主だ。そんな彼女であったが、今回の模擬法廷で、スムーズにいかない箇所がいくつかあった。彼女が言うには、法廷で使われる用語には漢語的な表現がたくさんあるが、日本では、中国語圏とは異なり、違う漢字でも発音が同じになっているので、どの漢字なのか判断に迷うということである。模擬法廷で「現場に血痕様のものがあった」という表現が出たが、「血痕」はわかったけれど、「よう」とはどの「よう」なのか、やはり日本語のネイティブ・スピーカーでない彼女には難しかったようだ。

 実際、多くの日本語のネイティブ・スピーカーでない人が司法通訳をやっているが、日常語とは異なる表現は悩みの種になっている。上の例でも、もしかしたら「けっこんよう」を「結婚用」だと思ってしまう人もいるかもしれない。「血の痕のような」と言ってあげれば間違うこともないのに、あえて難しい表現を使うのが法廷だ。

 笑い話になっているが、「ここは接見禁止です」と言われて「ここは石鹸を持って入ってはいけません」という意味だと思った人がいたそうだし、「諸般の事情をかんがみて」という表現を、「初犯なので、それを考慮して」という意味に訳した通訳人が実際にいたそうだ。このような同音異義語は、たとえ日本人であっても、間違いを犯す可能性は十分ある。

 ところで、この模擬法廷の被告人質問で、被告人が人を殴ったときの話になったが、彼は拳を突き出して、何やら中国語で言った。私の耳には「・・・・シャオリン・・・」という部分しか聞き取れなかった。そして、私は「まさか」と思ってしまった。「少林寺拳法」で殴ったと言ったと思ってしまったのだ。「それはまずいだろう。自分に不利になるのに・・・」などと思っているうちに、通訳人がこう訳した。「はい、小林さんを殴ってしまいました。」少林寺拳法の少林ではなくて、小林さんだったのだ。中国語では固有名詞でも何でも中国語読みにする。

 後で通訳人にこの話をしたら、彼女は笑いだした。そして、「小林」と「少林」は、中国人にとって発音はまったく違うと言った。そして、違いをデモンストレーションしてくれたが、私にはあまりよくわからなかった。中国語の発音は、現代日本語の乏しい発音体系では到底カバーし切れない。同音異義語が多いはずだと大いに納得した。

(中国語を熱心に取り入れていた古代では、日本語の発音はもっと複雑で、漢字によって微妙な発音の違いもあったようである。)
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Makiko Mizuno
エッセイ(通訳のジレンマ)


木枯し紋次郎
木枯し紋次郎

 フジテレビ金曜プレステージで「江口洋介主演の「木枯し紋次郎」が放映されました。笹沢佐保の原作を 1972年に市川昆監督が連続ドラマ化し、それまでになかったニヒルなヒーローを当時無名だった中村敦夫が演じて一世を風靡した、あのドラマのリメイクです。当時中学生だった私は、このドラマに完全にハマってしまい、”I have nothing to do with it.”という英語の構文を「あっしにはかかわりのねぇこって」と訳していたのを思いだします。
 ところで、この「あっしにはかかわりのねぇこって」というセリフですが、どのように訳したらニュアンスが伝わるのでしょうか。色々と考えました。

I have nothing to do with it.
I don’t wanna get involved.
I’m not concerned about it.
これらはみな、’I’ が主語になっていて、主体がはっきりしています。「私は」それには関わりを持っていない。あるいは関わりを持ちたくない、という意志が感じられます。「あっしはかかわりを持たねぇんで(持ちたくねぇんで)」という感じなのです。ところが、紋次郎のセリフは、運命に逆らわず「死ぬ時には死ぬ」という生き方をしている人物像も考え合わせると、流れに身を任せた、もっと受身的なニュアンスを感じさせます。

That’s none of my business.
It doesn’t concern me.
これらのような表現にすると、主語は ’I’ ではなくなりますが、「知ったことじゃない」というように、ちょっと突き放した感じになってしまいます。

 ドラマなどの決めゼリフは、それ自体特別のニュアンスを持っており、独特の雰囲気をかもし出しています。ニュアンスが占める部分が大きければ大きいほど、通訳や翻訳は非常に難しくなります。
 有名な映画「カサブランカ」の名ゼリフ”Here's looking at you, kid”が「君の瞳に乾杯」と訳されたことについても、名訳であるか完全な誤訳であるのか、色々と賛否両論です。プロの翻訳家は、もし「あっしにはかかわりのねぇこって」を訳すことになったら、思い切った誤訳をしてでも、場の雰囲気を出す努力をするのでしょう。でも、どんな訳をつけても、人それぞれ感じ取り方が異なるので、読者(あるいは視聴者)の感性と翻訳家自身の感性との間にギャップがある以上、完璧な訳出はありえないのです。
 ところで、「木枯し紋次郎」というタイトルが ’Cold wind Monjiro” と英訳されていましたが、あまりにも安直な英訳だと思いました。「冷たい風の紋次郎」になってしまいます。「木枯し」という言葉は「初冬の寒さ」「わびしさ」「物悲しさ」のニュアンスを多分に持った言葉です。また、このタイトルは「木枯しのような紋次郎」とも「木枯しのような境遇にいる紋次郎」とも受け取れる表現ですが、それをどう受け止めるかも、読者あるいは視聴者の感性に任されています。ですので、これを英訳するのは大変難しい作業です。
 ’Lonely Monjiro in Wintry Wind(紋次郎はひとり、木枯しの中に)!のように、ニュアンスを意識して訳しても、ここまではっきり「淋しいlonely」と言い切ってしまうのも問題があるし、「冬の風の中in Wintry Wind」と言ってしまうと、in という前置詞があるために、位置が固定してしまいます。さらに、冬という言葉も具体的過ぎ、はっきり言って、最悪の訳出に思えてきます。
 では、発想を変えて「無宿渡世人 紋次郎」というようなタイトルにしてはどうかと思ったのですが、ここでも大きな問題が発生します。「無宿渡世人」にあたる英語はないのです。homeless, wanderer, vagabond, tramp,  gambler・・・これらの表現のどれを取っても、江戸時代という特別な時代背景の中で生じた特殊な生き方である「無宿渡世人」のイメージを描き出すことはできないのです。 
 そうなってくると、一番無難なのは、やっぱり、’Cold wind Monjiro’ のような、どうとでも取れる表現なのかもしれません。でも、私が英語のタイトルを考えるように言われたら、おそらく、単純に ’Monjiro’ にすると思います。考え過ぎて深みにはまるよりは、このほうがいいのではないでしょうか。

Makiko Mizuno
エッセイ(通訳のジレンマ)


「湯」イコール"hot water"じゃない!?
「湯」イコール"hot water"じゃない!?

 一般的に通訳者は語学系、文学系の出身者が多く、言葉という意味では専門家であっても、その他の専門分野に関しては全くのしろうとから始めた人が多いです。ですから、通訳者がある分野で正確に通訳をしようと思ったら、相当な事前準備が必要となります。その分野の専門家が何年もかけ、あるいは一生かけて積み上げてきた知識、あるいは、少なくともその知識を表現するに足る語彙を、通訳者は、短期間でマスターしなければならないのです。依頼人の常識が通訳者にとっても常識になるくらいのレベルにまで自分を持って来なければなりません。
 ですから、通訳者は、学術・専門会議などの前には、それに関係するペーパーやドキュメントを出来るだけ多く入手し、読み、頭に入れ、ボキャブラリー・ノートを作成し、それを記憶して本番にのぞみます。時間が充分にある場合は、自分なりに満足のゆく事前準備が出来ます。しかし、そのような状態でのぞんだ場合ですら、100%完璧に通訳ができるということはめったにありません。時には、思いがけないことでつまずくこともあります。
 昔、こんなことがありました。某鉄鋼会社が外国人研修生に対して鉄の圧延工場の設備に関するセミナーを開催しましたが、私を含めて3人の通訳者が派遣されました。分厚い英語の説明書を事前に配布され、”billet”(圧延前の鋼片)などといった専門語彙のチェックも行われました。
 さて、本番となり、講師の方が、図を示しながらいろいろと説明をし、それを逐次で通訳するという作業が始まりました。ある場面で、講師の方が図の一部を指して、「ここの部分に湯を流し込みます。」と言いました。その時訳していた通訳者が(幸い、私ではありませんでした)、”We pour hot water here." と言いました。それを聞くやいなや、
「ホット ウォーターじゃないよ。」
と講師の方がとがめました。
「でも『湯』とおっしゃったと思いましたが。」
と通訳者が言うと、
「ここで『湯』と言えば、溶かした鉄のことですよ。お湯なんか入れたら大変なことになりますよ。」 
と、講師の方は、通訳者の常識を疑うような表情をみせたのです。
 確かに、三省堂の『大辞林』で「湯」を引くと、第4番目の定義として「金属を溶かして液状にしたもの」と出ています。でも、一般人である通訳者にとっては、「湯」とは熱い水のことでしかありません。状況から考えたらこんなところにお湯を注ぐわけはない、と言われるかもしれませんが、その状況にしたって通訳者に完全に把握することを期待しても無理なのです。『湯』と言われて溶かした鉄をすぐに思い浮かべることのできる人は、ほんの限られた専門家にすぎません。
 このように、言葉の一般的な使い方と、業界内の特殊な使い方が違っているケースは多く、通訳者にとって大きな落とし穴になることがあります。このような例については、今後、少しずつご紹介します。

Makiko Mizuno
エッセイ(通訳のジレンマ)


異文化伝心(8)
異文化伝心 (8) 「暴れん坊将軍」は凶暴?

 かつて一世を風靡した「マツケン・サンバ」のことは今だに記憶に新しい。はじめて見たときは、唖然・・・!マツケンもついに離婚(当時、松平健と大地真央は離婚したばかり)のせいで自暴自棄になってしまったのかと、ちょっとショックを受けました。でも、あのキンキラキンの江戸時代の装束とダンスは、かなりシュールで、なかなかのものでした。
 さて、このマツケン・サンバですが、海外のメディアでも取り上げられました。「日本の有名サムライが、サンバに合わせて腰を振る!」というような見出しでセンセーショナルに紹介されていましたが、そのうちリオのカーニバルに参加するのでは、という憶測も流れたほどです。
 ニューヨーク・タイムズでも、このトピックが取り上げられましたが、記事の中にこんな表現がありました。
「Violent Shogun として有名な彼は、・・・・・」。これを見て、えーっ!とびっくりしました。(Violent Shogun はないでしょう。)きっと、「暴れん坊将軍」を直訳したのだと思いますが、Violentは、普通、「暴力的な」とか「凶暴な」という意味で用います。辞書を引くと、確かに「暴れる」は“behave violently”と訳してあります。そして、「暴れん坊」については ”rowdy”(乱暴者、荒くれ者) ”hooligan”(ごろつき、悪党)のような言葉が出てきます。
 では、日本人にとって「暴れん坊将軍」の「暴れん坊」とは、どんな意味になるのでしょう。正義の味方のヒーローですから、決して悪いイメージは湧かないはずです。「暴れん坊」という表現には、ある種の好意が込められています。「政界の暴れん坊」と言ったら、既成概念に囚われず、自分の思ったことを堂々と言ったりやったりする政治家を指すのです。
 「暴れん坊将軍」の場合もそうです。江戸時代の将軍様といえば、政治のことは老中や側用人たちに任せっぱなしで、自分は優雅に学問や遊びにふけっている、現実感覚の乏しい「ひ弱な殿」や「バカ殿」タイプが浮かんできます。もちろん、例外もあります。そして、その典型が徳川吉宗ということになっています。だから、「暴れん坊将軍」なのです。つまり、将軍らしくなく元気で賢くて、武芸にも秀で、庶民のことも良くわかり、何事も一生懸命な素敵な将軍、というニュアンスがすべて、「暴れん坊将軍」という言葉に込められているわけです。
 ニューヨーク・タイムズの記事を書いた人がどんなバックグラウンドを持つ人か知りませんが、テレビで「暴れん坊将軍」を見ていれば、あるいはその内容を知っていたら、こんな訳語はつけなかったはずです。ただ盲目的に辞書を引いて付けた訳語だと思いますが、これは誤訳だと言わざるを得ません。
 さらに悪いことに、「将軍」という言葉はアメリカ社会に深く根付いています。“shogunate”(将軍の、幕府)というような、日本語と英語が合体した言葉も生まれました。なぜ「悪いことに」なのかというと、このshogunという言葉の持つイメージは、日本人のそれとはかなり違うからです。Shogunとは、古い時代の日本の武力の象徴であり、非常に好戦的なイメージで受け止められています。みやげ物屋でおもちゃの日本刀を振りかざして「I am Shogun !」と言って喜んでいるアメリカ人観光客をよく見かけます。
 ニューヨーク・タイムズの記事では、そのような好戦的なイメージを持つ“shogun”という言葉に、さらに
“violent”という形容詞が付いてしまったのです。おそらく、それを読んだアメリカ人は、とても凶暴で恐ろしげなサムライを思い浮かべたでしょう。「暴れん坊将軍」という日本語と“Violent Shogun”という英語との間の意味とニュアンスのギャップは、それほど大きいのです。「辞書の言葉をそのまま信じてはいけない」と、よく言われますが、言葉というものはそれが使われる状況によって意味を持たされます。そこをいかに適切に判断するかが、翻訳者、通訳者の腕の見せ所なのです。
 でも、いかにも凶暴そうなジャパニーズ・サムライがサンバに合わせて腰を振っているという光景のほうが、たしかに記事としてはセンセーショナルですね。


Makiko Mizuno
エッセイ(通訳のジレンマ)


インサイダーとしての通訳者、アウトサイダーとしての通訳者
インサイダーとしての通訳者、アウトサイダーとしての通訳者 

 10年以上前、実際に起こったことです。
 内戦の真只中にある某国を、日本の某使節団が訪問したことがありました。これには国会議員も何人か含まれていました。現地で彼らに対する記者会見が開かれ、その内容は、日本の大使館付の通訳によって訳されました。そしてそれが現地の新聞に載り、さらにはその内容が、日本に逆輸入され、日本語に訳されて報道されたのです。
 ところが、日本のメディアで内容が報道されるやいなや、騒動が起こりました。使節団のメンバーたちが、普段日本で言っていることと全く異なる話をしたと報道され、彼らは二枚舌であると非難されたのです。ところが、メンバーたちは「私たちはこんなことを言った覚えはない」と、激怒しました。実際に現地で自分たちが話した内容とニュアンスが違う、あるいは、まったく反対の趣旨の内容が報道されている、と彼らは主張しました。
 一体何が起こったのでしょう。実は、現地の大使館の通訳者が、使節団の発言を、その国にとって都合のいい論調に変えて訳していたのです。大使館の通訳者ですから、自分自身、外交官という立場があるわけです。それで、角が立たないように、うまく処理した結果、オリジナルとは異なる通訳バージョンが出来てしまったということでした。
 これは、あくまで外交官という立場を持った通訳の話です。

 それでは、純然たる通訳者、つまり、訳すことのみが仕事であり、他の立場を持たない通訳者の場合はどうでしょうか。言われたことをそのまま正確に訳すのが通訳者の務めですが、時には大きなジレンマにぶち当たることがあります。
 ドイツ文学の専門家であり日独会議通訳者でもある相澤啓一氏はこう書いておられます。「通訳者は信じられないような光景に遭遇する。・・・中略・・・ヒトラー・ユーゲント(ブログ管理人注釈「ヒトラー青年隊」解説)に接して感激した昔話を得意げに話し続ける財界重鎮のスピーチを訳す羽目になってドイツ側の前で絶句させられる。こうした場合に通訳者は、通訳としての分際をもわきまえずに日本側をたしなめてクライアントの叱責を買うべきなのか、それとも契約どおり日本側の意を体し黒子に徹してドイツ側の顰蹙を買うべきなのであろうか。」(「異文化間コミュニケーションにおける通訳者」(相澤啓一)『言語』1997年8月号「通訳の科学」)
 外交官であれば、当然このような内容は訳さないでしょう。ヒトラー時代のドイツを現代のドイツ人がどう受け止めているのか、ということを考えると、そのような発言は、日本側とドイツ側の関係にネガティブな影響を及ぼすことがわかるからです。でも、一般の専門職としての通訳者は、言われたことをそのまま訳すことが仕事なのです。

 江戸時代の通訳者、つまり「長崎通詞」は政府の役人でした。ですから、日本にとって一番利益になることは何なのか、一番穏便に事が運ぶにはどうすればいいのか、という観点から通訳の仕事を行っていたはずです。外交官に似た「立場」というものがあったのです。
 ところが、近代になり、訳すためだけの「通訳者」という職種、特にフリーランサー(自由契約)の通訳者という立場が確立してからは、通訳者には、関係者あるいはインサイダーとしての「立場」が失われました。つまり、「透明人間」あるいは「黒子」のようになる、つまり、どちらの立場でもなく完全に中立であり、ことばの橋渡しをすることのみを期待されるようになりました。言い換えれば立場的にアウトサイダーである通訳者の数が非常に多くなったのです。
 この、「通訳の立場性」の問題は、上記の例にもはっきり表れているように、トラブルを避けて双方の円滑なコミュニケーションを優先するか、あるいは通訳者のあるべき姿に固執して「黒子」に徹するべきか、という大きなジレンマのもとになっているのです。
Makiko Mizuno
エッセイ(通訳のジレンマ)


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