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Makiko Mizuno
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法律用語という異文化
 12月12日に金城学院大学で「法と言語 学会」の第1回研究大会が開かれた。まだ生まれたばかりの学会で会員も少ないので、二十数名の小ぢんまりとした集まりだったが、会長の基調講演、実務家を中心とするシンポジウム、個人研究発表は、それぞれ中身は充実していた。参加者も研究に熱意のある人が多く、第2回以降の研究大会にも大いに期待が持てそうである。
 さて、基調講演では、日本の法言語学の草分けである高崎経済大学の大河原眞美先生が、法律用語と一般用語との違いや、司法の現場での言葉の使い方に関する興味深い話をされた。それを聞きながら、私自身が過去10年にわたり、「日本司法通訳人協会(2006年解散)」研修会での法律用語の解説で取り上げていた内容と共通の部分が非常に多いことに気付いた。私は「司法通訳」という観点から用語の研究をしていたのだが、やはり、気になることは同じだったということである。
 法律用語の勉強をしていると、これまでの人生の間、「この言葉はこういう意味である」と疑いもなくずっと信じていた言葉の意味が、実はそれとはまったく違うのだということを教えられ、「目からうろこ」の経験をすることが多い。いくつか紹介しよう。
 私たちは、「善意の第三者」というような表現をよく耳にする。一般的には、「善意」「悪意」という言葉を使う場合、よい事、あるいは悪いことをしようとする意志を想定する。「善意の人」といえば、英語では” a person of good will”と訳す。「悪意に満ちた表情」であれば、”a look full of malicious intent”のような表現になるだろう。ところが、法律上、「善意」「悪意」という言葉は、それとは全く違う意味を持っている。「善意」は、「ある事実を知らない」という意味で、「悪意」は「ある事実を知っている」という意味なのである。そこにあるのは、知っているか知らないかということだけであって、道徳的な意味での善悪の判断は入らない。
 昔、「善意の第三者」という表現を聞いたとき、変だなと思ったことがあった。どんなに性格の悪い、いやな人間でも「善意の第三者」と言われるのに違和感があったのである。また逆に、「悪意を持って土地を占有した」というような表現は、別に邪悪な気持ちでやっているわけでもないのにオーバーな・・・、というように感じたこともあった。だから、司法通訳人協会の研修会で、弁護士さんからこれらの言葉の法的意味を教えていただいたとたん、そういったモヤモヤが解消して、まさに、「目からうろこ」の気分になったわけである。
 だが、その時、一瞬ギクリとしたことも確かだ。なぜなら、その日まで私は、「善意」「悪意」を別の意味だと理解していたわけである。ということは、もし、司法に関する場面でその言葉を通訳しなければならない状況にあったとしたならば、100%誤訳をしていた、ということになる。「悪意を持って」と言われれば、十中八九 ” with malicious intent “と訳していただろう。研修会の時も、弁護士さんがこう言った。「『悪意』を英語で訳すときには” knowingly “(知りつつ)だけにしておいて下さいね。決して余計なことを付け加えないように。」
 このような例は他にもある。例えば「情を知らない」という表現だが、法律用語を知らない人にこれを読ませると、ほとんど例外なく「なさけをしらない」と言う。そして、「冷淡な」とか「優しくない」というような意味だと考えるようだ。ところが、司法の世界では、これは「じょうをしらない」と読み、意味は「事情を知らない」ということである。例えば、飛行機で大麻入りの荷物を持ち込もうとしたような場合、荷物係がその荷物を大麻入りだと知らずに飛行機から降ろすという状況を、「情を知らない係員をもってして、これを機外に取り降ろさせ」と表現する。
 このように、司法の世界で使われる言葉は一種独特の意味を持ち、通常の使い方とは違うことが多い。まさに、法律の世界は、言葉の上で、私たちの日常とは「別文化」に属していると言えよう。
 中国語で「手紙」と言えば、「トイレットペーパー」のことだ。同じ漢字文化に属していても、両言語の間には、このような違いがたくさん存在する。これと同じように、法律用語の世界には、同じ日本語の世界にいながら異文化を感じることが多々あるのである。

 
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Makiko Mizuno
エッセイ(一般)


それは単数? それとも複数?
以前紹介したメルボルン事件(日本人観光客のヘロイン密輸事件)の裁判で通訳を務めたオーストラリア人と話をしたことがありますが、彼は、日本語を通訳する難しさの1つとして、単数・複数の区別の曖昧さを挙げていました。例えば、この事件では、いくつかのスーツケースが二重底になっていてヘロインが隠されていたわけですので、当然、「スーツケース」という言葉が何度も出てきます。日本語で「スーツケース」と言われるたびに、彼は“a suitcase”(単数)と訳すべきか”suitcases”(複数)にすべきかわからず、大変困ったそうです。複数形のない日本語を単・複の区別をしなければ文章が作成できない英語に置き換えるのですから、よほど状況を正確に把握していなければ、判断がつきません。その通訳人は、一々、「それは単数ですか、複数ですか」と尋ねては、訳していたそうです。
逆の場合も、同様に問題が生じます。日本語に訳す場合、単語の前に「多くの」とか「いくつかの」、あるいは「3つの」というように明らかに複数とわかる表現があれば問題ありません。”many cars”なら「多くの車」というように、形容詞から複数だということがわかるからです。ところが、そういう表現がなく、単に”cars”と言われたら、非常に困ります。  
日本語では、「・・・たち」「・・・ら」を付けて複数を表す事が多いですが、「・・・たち」や「・・・ら」が付けられる言葉は限られています。一般的に、これらは動物以外のものには付けません。「車たち」「車ら」はおかしいです。また、「家」とか「国」などを複数形にするには「家々」、「国々」のようにしますが、それが出来る言葉も限られています。「車々」とは言いません。
英語でよく“governments”や”problems“という表現が出てきますが、日本語の「政府」「問題」には複数形がありませんので、複数のニュアンスを出すには、かなり工夫が必要です。例えば「各国政府」「諸問題」のように訳すことも1つの方法です。
このように、世界の言語の中には複数形が存在するものと存在しないものがあります。その理由に関しては、こんな説があります。私は専門家ではないので、その真偽のほどはわかりませんが、なかなか面白い考え方だと思いました。
その説とは、狩猟民や遊牧民をそのルーツに持つ民族の言語には単数形、複数形が存在し、農耕民をルーツとする民族の言語には、単数、複数の区別が曖昧である、というものです。つまり、獲物を狩りに行くとき、何頭の獲物を獲るには何人の人員が必要かということを常に意識している、あるいは羊などが何匹いるということを常に意識していると、単数、複数の感覚が発達し、言語にもそれが反映される。その反対に、1年の収穫が全体として存在し、それを順に食べていっている民族では、単数、複数が明確でなくとも暮らしに差し支えないので、その感覚が発達しなかった、ということです。
言語はその属する文化と密接に絡み合っているので、民族の生産形態も、当然、言語の形成の際に何らかの影響を及ぼしたのでしょう。話をするときに、単数を使うのか複数を使うのかを一々意識してしゃべっている人たちと、そんなことを何の意識せずにしゃべっている人とでは、おそらく、その見えている世界も違うのでしょう。” There is a cat on the sofa.”も”There are cats on the sofa.”も、日本語では「ソファーの上に猫がいます。」となり、日本人にとっては一匹であろうと、複数であろうと、言語上、どうでもいいことなのです。聞き手が勝手に想像します。それに比べ、英語の話者にとっては、言葉を発する前に、何匹いるかを意識しなければ文章を作ることが出来ません。話し手のほうに、明確に伝える義務があるのです。
単数、複数の問題も、通訳をめぐるトラブルになり得ます。ある日本人が「ソファーの上に猫がいます。」と言った場合、通訳者は、それが1匹なのか複数なのか自分で決めた上で英語に訳さねばなりません。このように、通訳者が、自分の判断で情報を明確化してしまうということは、場合によっては、非常に危険なことだと言えましょう。
ところで、単数、複数に関してですが、同じ日本語なのにとても妙な思いをしたことがあります。私が子供を連れて京都のあるお宅を訪問したときのことです。お茶を出されたときに、「お子達は、ジュースのほうがいいですやろ。」と言われました。私の子供は一人だったので、なぜ「お子達」と言うのかわからず、他に子供がいるのかなと、思わず周囲を見回してしまいました。京都のお年寄りがよく使う「お子達」という表現は、一人であろうと複数であろうと構わないようです。おそらく、一種の婉曲法で、一人の人間をはっきり指すのを避けているのだと思います。はじめて聞いたときはびっくりしましたが、今では、京都らしい味のある表現だと思っています。
Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


学生通訳コンテストが開催されました
 12月5日に名古屋外国語大学主催の第3回学生通訳コンテストが同大学で行われました。金城学院大学の私の通訳ゼミ所属の学生も参加しました。第3回目でしたが、これまでで一番学生のレベルが高かったような気がします。1位に輝いたのは、名古屋外大の学生さんで、かなりの実力を見せてくれました。2位は、神戸市外国語大学、3位は東京外国語大学でした。それぞれ、たいへん良いフォーマンスでした。私の学生も、3位までには入れなかったけれど将来に一番期待が持てる学生に与えられるJapan Times 特別賞を受賞できました。
 彼女はこの2ヶ月間、私の研究室に通って練習し、家でも本当によく勉強しました。正直言って、本番になったら緊張してしまってフリーズするのではないかと心配でしたが、やはり自分で納得がいく準備をした上で臨んだ本番だったようで、とても落ち着いていて、通訳にもベストを尽くすことができました。あれだけ頑張っている彼女を見てきたので、受賞が発表された瞬間、思わず涙が出ました。今回のテーマは司法制度で、かなり難しかったと思いますが、参加学生のみなさんは、本当によく頑張っていました。
 金城学院大学から、私のゼミ生を中心に50名ほどの学生が見学にきていましたが、大変刺激をうけたようです。今日(7日)のゼミの授業でも、コンテストの事や通訳についての質問責めに遭いました。勉強に対するモチベーションも高まったのは、本当にいいことです。
Makiko Mizuno
Diary


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