スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Makiko Mizuno
スポンサー広告


異文化伝心(18) カタカナの罠
 昔、アメリカ人の画家の通訳をしたことがありました。講演の通訳をした後、空き時間に彼女が画材店に行きたいというので、ついていきました。
 お店の中には、色々と見慣れぬものが並んでいましたが、それぞれ、特別な名前がついているのがわかりました。例えば、金属や鉱物などの粉を溶かして絵の具にするものはpigments (顔料)と呼ばれているし、水彩絵の具はwatercolors 、油絵の具はoilcolors です。絵の具はすべてpaint だと思っていましたが、そうではありませんでした。
店の中をあちこち見て回っていると、その画家が”I'm trying to find some medium.”と言いました。私は、mediumとは一体何だろうと思いながらも、とりあえず
「何か『中間的な物』っておっしゃってますけど・・・」と店員に言いました。店員は首をひねって
「それのサイズのことですか。」と、その画家が手にしていたコバルトの顔料のビンを指さしました。
私が、それを通訳すると彼女は
「違う。違う。mediumを探しているの。」と言います。
「よくわからないけど、『ミーディアム』というものらしいです。」と私。
「それは、何に使うものですか。」と店員。画家に聞くと、持っていたコバルト顔料を指差して、
「これを溶く液体のことよ。」と説明してくれました。私がそれを伝えると、
「それなら、うちには、『メジューム』というものがあります。」と店員が言うので、彼女にそう伝えました。すると彼女は怪訝な顔をして、
「私の欲しいのは『ミーディアム』というものよ。別に珍しいものじゃあないので、どの画材店にでもあるはずだわ。」と言います。

「『ミーディアム』というものがあるはずだと、おっしゃってます。」
「『メジューム』しかありません。」

この類のやり取りを何度か繰り返していると、
「あったわ。これよ。」と画家がうれしそうに声を上げました。そして、小ビンに入っている液体を私と店員に見せました。 それを見て、店員が、
「それが『メジューム』です。」と、憮然として私の顔を見ます。私は、そのビンを手にとってじっくり眺めました。そして、ラベルに書いてある英語を見つけました。
“medium”・・・そう、はっきり書いてありました。
 次の瞬間、私は自分のバカさかげんにあきれました。『ミーディアム』と『メジューム』は同じものでした。またしても、カタカナの罠・・・。顔料を溶く液体のことを英語ではmediumといい、それを日本人は『メジューム』と発音していただけのことでした。私にはmediumを『メジューム』と発音するなどという発想は全くなかったのです。英語の言葉であるということも考えませんでした。フランス語か何かだと思ってしまっていたのです。
でも、少しでも美術の知識があれば、こんなくだらない失敗はしなかったはずです。そういう意味で大いに反省しました。

 少し話が変わりますが、私の通訳の先生でもあった、同時通訳者として有名な村松増美氏がこんな話をしてくれました。彼がまだ駆け出しのころ、『立米』(りゅうべい・・・立方メートルのこと)という言葉が出たとき、『りゅうべい』とは、自分がまだ知らない英単語だと思ってしまい、色々アクセントを変えて『リューベイ』といい続けたけれど、当然のことながら、全く通じなかったそうです。
 また、『オットセイ』も英語だと思い、『オーットセイ』や『オットセーイ』のように、これまたアクセントの位置を変えて、色々トライしてみたけれど、ダメだったというエピソードもありました。(ちなみに、オットセイはアイヌ語が中国音化して、日本に入ってきたらしいです。)
日本語には、色々と外来語があり、どこまでが日本語でどれが外来語であるのか、語感的に非常に紛らわしくなっています。しかも、その外来語のうち、どれが英語で、どれがそうでないのか、あるいは、どれが和製英語で、どれが本来の英語なのか、見極めが難しいものもあります。しっかり勉強しているはずの通訳者ですら、時には思いがけないミスをすることがあるのです。
 
 ところで、『簿記』という言葉がありますが、これは英語のbook keepingが訛ったものであると知ったときには、妙に感動しました。まさにぴったりの漢字まで付いているのです。あっぱれと言うほかありません。
スポンサーサイト
Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


法廷通訳の正確性をめぐる議論について
 「ベニース事件」の法廷通訳の正確性をめぐる鑑定結果が新聞等で公表されたことをきっかけに、様々な議論が行われています。その内の多くが、かなり見当はずれであることが大変気になります。

 まず、「通訳というものが、そんなに誤訳やエラーが多いのであれば、これは一大事だ」という危機感あふれる議論ですが、これは、通訳なんて誰がやっても同じであるという前提に立つものです。現実問題として、通訳人すべてが誤訳が多いわけではありません。大変優秀で、法廷でもほとんどミスをしない通訳人も多くおられます。

 次に、「通訳人も、本当に大変な仕事をがんばってやっているのだから、責めては可哀そうだ」という議論です。時には法律家が「通訳のみなさんは一生懸命やってくださっていて、とてもありがたいと思います」というようなコメントをされます。全力を尽くして頑張っているのだから認めてあげよう、とか、責めるべきではない、というような意見は、まるで小学校の運動会レベルの議論だと言わざるを得ません。運動会だから、「一生懸命走ったのだから、ビリになっても立派だよ。」と言えるのです。

 法廷通訳にとっては、がんばってもがんばらなくても、全力を尽くしても手抜きをしても、通訳が正確にできれば、どっちだっていいのです。結果が全てです。いくら一生懸命がんばっても、正確に通訳をすることができない人は法廷に立ってはいけないのです。被告人の人生を左右する場です。どんなに全力を尽くしても、能力が低かったら、やってはいけないのです。

 このことを「通訳」という文脈で語っても、理解しにくいかも知れません。では、こういう例はどうでしょうか。自分の友人が盲腸炎で苦しんでいる。何とか助けたいので、医師免許がないのに手術をしてしまった。その結果、友人は死んでしまった。もし、こういう事件が起こったら、人は何と言うでしょうか。一生懸命頑張って手術をしたのだから、責めては可哀そう、と言うでしょうか。まず言わないと思います。医師の資格もないのに手術をしたことに対して責任を問うのが普通だと思います。仮にその友人が助かったとします。それでも人は、資格がないのに手術をすることに抵抗を感じるはずです。法廷通訳についても、そのように厳しいスタンダードが守られるべきです。法廷は小学校の運動会ではありません。手術室と同様、人間の命を扱っている場所なのですから。

 一般的に会議通訳の世界は非常に厳しいです。水準以下の通訳者は市場原理によって淘汰され、優秀な人材だけが残ります。ところが法廷通訳の世界はそうではありません。出来る人と出来ない人が、全く同じ待遇を受け、問題があっても誰も何も言いません。実際、法廷通訳人の能力の上下のレベル差は、毎年100回以上手術をしてきた超ベテランの外科医と医学部1年生の学生の差ほどもあるのです。でも、資格認定制度がないこと、そして、市場原理が機能しない分野であることから、「通訳能力が不十分な人」を排除できません。これが日本の法廷通訳制度の最大の欠陥です。

 法廷通訳という問題について、関係者が正しい認識を持ち、議論が誤った方向に進んでいかないことを願っています。
Makiko Mizuno
「司法通訳」新情報


| HOME |
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。