スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Makiko Mizuno
スポンサー広告


言語鑑定の将来
6月13日(日)に明治大学で法と言語学会・法と言語科学研究所共催のシンポジウム「法言語学の将来像-司法過程における言語鑑定のあり方-」が行われました。私たち主催者が思っていたよりもはるかに多くの人が参加し盛況でした。

前々日には東京高裁の司法記者クラブで記者レクも行って宣伝しましたが、おかげでマスコミ関係者も多く来てくださり、その日の6時のNHKの全国ニュースでシンポジウムの模様が報道されました。

今回のシンポジウムの第1部は「言語学鑑定の利用に向けた課題と展望」というテーマでした。パネリストの先生方からは、鑑定をテーマとする大変面白いお話がありました。言語学鑑定などよりも歴史の長い法心理学鑑定でも、裁判所に受け入れられにくいというようなことや、心理学者の方たちも法律家からの冷遇に対し、非常に悔しい思いをしているということもわかりました。

今後の言語鑑定が直面するであろう困難についても言及されました。人文科学系の学問は自然科学系のようには、法律家に専門性を認められにくいということ、つまり、法律家は言語のことなど自分でもわかっていると思っているから、言語学者の言うことを特に専門性の高いものだとは思わないというのが現状だということです。そして、言語学は科学であり、単に言語ができることとはその専門性が異なることをアピールしていくことが今後必要であるということでした。

第2部では、「法廷通訳の正確性と鑑定について」というテーマのもと、2002年に起きたニック・ベイカー事件と現在進行中のベニース事件の控訴担当弁護人お二人から、それぞれの事件の紹介と問題点の指摘がありました。それを受けて両事件の鑑定書を作成した私から、当該事件の法廷通訳の問題点と、法廷通訳の言語鑑定のポイントについて話をしました。

通訳の正確性の鑑定ということに関して私が強調したことは、法廷通訳に関する鑑定の主眼は「誤訳」よりも言い淀み、訳し落しなどの「通訳エラー」であり、特に裁判員裁判では、そういう通訳エラーの繰り返し、あるいは積み重ねが被告人自身に対する歪んだ心証を形成してしまう可能性があるという点でした。マスコミ関係者も含め、一般の人は、どうしても具体的な語訳にのみ関心が集中してしまい、それ以外の要素の重要性が見過ごされがちになってしまいます。

また、今回のベニース事件の控訴の争点が通訳人の訳出が「正当な意訳」かどうかという点にあるので、「意訳」とは何かについても話しました。意訳とは「情報の量と密度を変化させないで、原発言を目標言語で別の形に言いかえること」です。ですから、今回の通訳人のように訳し落しが頻発しているような場合、情報の量と密度を保っているはずはないので、決して「正当な意訳」ではないと述べました。

今回のシンポジウムで、言語鑑定が裁判で普通に受け入れられるようになるには、まだまだ長い道程があることを実感しました。歴史的に見て、正確なコミュニケーションの重要性を強く認識せざるを得ないような状況には直面して来なかった日本人社会ですが、今後、真のコミュニケーションとは何なのかを真剣に考えていかなければ、グローバル化に対応することはできなくなるでしょう。

スポンサーサイト
Makiko Mizuno
Diary


べニース事件控訴審始まる
べニース事件の控訴審が6月2日に初日を迎えました。傍聴に行きましたが、大変驚かされることばかりでした。

第1審の法廷通訳の質が問題になって控訴された事件です。当然、控訴審については質の高い通訳人が選任されなければなりません。その適性について確認するために、弁護人が通訳人に対していくつか質問したいと求めました。それに対し、裁判長は、裁判所が適正であると認めた通訳人であるので、その必要はないと却下しました。最初から、裁判所が選任した法廷通訳には問題ないという姿勢を貫こうとしていることが明らかでした。

今回、私が通訳の正確性についての鑑定書を提出していますが、これについて検察側から答弁書が出されています。これについて、弁護人から「その内容の裏付けのために、検察側も言語の専門家の鑑定を依頼するのか」という質問がありました。それに対しては「ございません」との返答。弁護人が、専門家の鑑定に対する答弁であれば、やはり専門家の意見に基づいたものでなければ法的に問題があるのでは、と言いますと、裁判長は、「答弁書を受理しているわけではない。弁論として預かっているだけ」と述べました。

弁護人は、今回、他にも4通、言語の専門家の鑑定書を提出しました。これに対し、検察官は「必要なし」ということで証拠として採用することに不同意。「個人的見解」にすぎないから、という理由が述べられました。

今回の鑑定には、日本の法言語学の第一人者で博士号も取得しておられる先生をはじめとする、研究者としての業績も十分な方々も参加しています。内外の20年にわたる研究成果の蓄積から得られた知見に基づいた、科学的な鑑定内容です。このような、言語分析の専門家の鑑定書に対して「個人的見解」であると述べ、自分の答弁書も個人的見解だが、専門家の意見による裏付けは必要ないという検察側の理屈は、とうてい受け入れることはできません。

法医学鑑定や精神鑑定では、このような扱いをされることはありません。鑑定書の意見に対して「個人的見解」などと言われることはあり得ないし、それを退けるために法律家が自分の意見のみをぶつけてくることはあり得ません。必ず別の専門家の鑑定を依頼するはずです。

言語鑑定はどうしてこのような理不尽な扱いを受けなければならないのでしょうか。理由は簡単です。言語というものは、それを使える人は誰でもその専門家であるという大きな勘違いがまかり通っているからです。言語を使えることと、言語の仕組みや言語の及ぼす影響について解明することとは全く別物だという認識がないのです。

欧米諸国では、言語学者の専門家証人としての立場は確立しているし、そのシステムが非常にうまく機能しています。もちろん、そうなるためには様々なハードルをクリア―してきたことは間違いありません。

法廷通訳についても、世界の多くの国で、レベルの高い通訳人を保証する仕組みが作られています。それは、通訳をめぐる多くの不公正な裁判について問題提起され続けてきた結果です。特に陪審制度のある国では、陪審員の心証形成への通訳の影響についての豊富な研究データがあり、法律家もある程度それを尊重しています。このような点において、日本の司法制度の硬直化した姿勢は驚くばかりです。

人間を他の動物から分け、人間たらしめている重要な要素は言語です。法廷は人間を裁く場です。人間にとって最も重要な言語というものに対する感性があまりにも鈍い。それが現在の日本の司法制度です。


Makiko Mizuno
Diary


| HOME |
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。