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Makiko Mizuno
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異文化伝心 (その5) マッチョなのもいいけれど・・・
マッチョなのもいいけれど・・・

 最近、通訳をする機械のことが話題になったりしていますが、なかなか実用化しそうにありません。簡単な決まり文句なら訳せるけれど、少し複雑な内容になると、機械ではお手上げです。それは、人間のコミュニケーションは、その多くの部分を非言語的要素に頼っているからです。私たちはみな、話をしている人の顔つき、視線の動き、身振り、言葉の抑揚、声の出し方などの非言語的要素を全て、無意識のうちに分析しながら、その人の言おうとしている内容を感知しています。
 その証拠に、言葉だけを聞いて理解するのはけっこう難しいことです。私の母は、岐阜県の人なので、関西弁には慣れていません。よく京都の私の家に遊びに来るのですが、電話を受けるのを極端にいやがります。面と向かって話す時はちゃんとわかるのに、電話で関西アクセントで話されると、内容がよくわからないそうです。また、ロボットが話すような、抑揚を完全に消した状態で話を聞いても、やはりよくわからないことが多いです。非言語的要素を減らせば減らすほど、話の内容は把握しにくくなります。
 このようなことを考えても、機械で完璧に通訳することは、おそらく可能にはならないでしょう。人間のコミュニケーションとは、それほど複雑な物なのです。通訳のような作業は、どうしても、人間にしかこなせない仕事なのです。
さて、自分の目の前にいるものが人間である場合、私たちは色々なことを考えるし、様々な思いを抱きます。それが通訳者であっても、同じです。通訳者を言葉を訳すための機械であるなどとは誰も思いませんので、通訳者という存在が、それを利用する人間の心の状態に何らかの影響を及ぼすのは避けられないことです。そして、そのことによって、様々な喜悲劇が生まれます。

 アメリカの法廷で、こんなことが起こりました。
 労災補償の裁判で、ヒスパニック系の男性の原告が法廷で証言する時に、そのスペイン語を英語に訳すための通訳者が付きました。この男性は、自分が怪我のために障害を負ったので、その補償を求めて裁判を起こしたのでした。ところが、非常に重要な場面で、この男性は信じられないような証言をしたのです。

弁護士: Xさん、あなたは、事故の前に出来ていたことで、今は出来なくなっていることが何かありますか。
原告: 僕は何でも出来ますよ。出来ないことはないです。
 原告は、自分の肉体的な障害を、はっきりと、誇りを持って否定したのだ。
     (Elena M. de Jongh “An Introduction to Court Interpreting”,1992より)
       
なぜこんな証言になったかというと、その時付いた通訳者が女性だったからです。原告であるヒスパニック系の男性の属する文化では、「男らしさ」が非常に重んじられ、大の男が女性の前で弱音を吐くなんて、死ぬほど恥ずかしいことだったのです。ですから、自分の障害、つまり、「自分に出来ないこと」について証言しなければいけない場面で、見栄を張って、「自分に出来ない事はない。何でも出来る。」と言ってしまったというわけです。この男性にとっては、補償を受けることよりも、女性の前で男としての名誉を守ることのほうが大事だったのです。笑い話のようですが、本人にとっては、ある意味で悲劇です。

 次は、在日韓国人で法廷通訳をしている若い男性に聞いた話です。
 韓国は、日本よりも儒教的価値観が深く根付いた社会であり、長幼の序列が厳しいので、人々は自分よりも年上を敬うのが当然とされている、そして、そのために、司法通訳の現場で弊害が起こっている、と彼は言いました。
若い通訳者が、警察などの取調べで、年配の韓国人の通訳をするとき、「若造のくせに、わしを取り調べるのか。」というように見下す態度を取り、まともに話をしてくれない人がいる。そして、年配の通訳者が付くと、とたんに協力的になって、何でも話すようになる、という現象が実際に起きているそうです。
 「年配の通訳者の中には、けっこういい加減で、きちんと訳さないばかりか、そのことを一向に気にもしていない人が多く、どう考えたって自分のほうが通訳としては優秀なのに、若いというだけで拒否されるなんて・・・。」
と、彼は嘆いていました。
 これも、(たとえ通訳であっても)若い人間に取調べなどされたくないという、年長者としてのプライドゆえの行動なのです。
 2007年に仕事で韓国に行きましたが、仕事の関係者の多くが私の年齢を知りたがりました。それによってどのような態度で接するかを決める必要があったようです。1日でも年上であれば、その人を敬わなければならないという社会通念が今も生きているようです。

上記の例から、通訳人という人間に対して人が抱く感情が、司法手続きの流れを変えてしまうこともあるということがわかります。

 少し視点は異なりますが、次のような例もあります。
 第二次大戦後の東京裁判で、東条英機を筆頭に24人のA級戦犯が裁かれました。英米式の裁判ですから、有罪か無罪かを争う場です。被告人は、罪状認否の時に、「無罪」を主張しなければなりません。被告が「無罪」を申し立ててはじめて、裁判が成立するのです。
 ところが、被告人の多くが「この期に及んで無罪を主張するなんて、そんな恥ずかしいことは出来ない。日本男子の名折れである。」と、それを拒否しました。弁護団の「無罪の申し立てがないと裁判が始まらない。英米式の裁判ではどうしてもしなければならない儀式のようなものだから」という説得で、ようやく「無罪」の申し立てをすることになったのです。
 少しずつ情況は違いますが、それぞれ、プライドや名誉に関わる事例でした。ヒスパニックの男性の「補償金よりも大事なのは男らしさを示すことだ」という感性に象徴されているように、自分の裁判のゆくえよりも、名誉の方が重要だというのは、いかにも人間らしい不合理さです。そして、その不合理さを支えているのは、やはり、文化的な要素なのです。


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Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


 
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