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Makiko Mizuno
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それは単数? それとも複数?
以前紹介したメルボルン事件(日本人観光客のヘロイン密輸事件)の裁判で通訳を務めたオーストラリア人と話をしたことがありますが、彼は、日本語を通訳する難しさの1つとして、単数・複数の区別の曖昧さを挙げていました。例えば、この事件では、いくつかのスーツケースが二重底になっていてヘロインが隠されていたわけですので、当然、「スーツケース」という言葉が何度も出てきます。日本語で「スーツケース」と言われるたびに、彼は“a suitcase”(単数)と訳すべきか”suitcases”(複数)にすべきかわからず、大変困ったそうです。複数形のない日本語を単・複の区別をしなければ文章が作成できない英語に置き換えるのですから、よほど状況を正確に把握していなければ、判断がつきません。その通訳人は、一々、「それは単数ですか、複数ですか」と尋ねては、訳していたそうです。
逆の場合も、同様に問題が生じます。日本語に訳す場合、単語の前に「多くの」とか「いくつかの」、あるいは「3つの」というように明らかに複数とわかる表現があれば問題ありません。”many cars”なら「多くの車」というように、形容詞から複数だということがわかるからです。ところが、そういう表現がなく、単に”cars”と言われたら、非常に困ります。  
日本語では、「・・・たち」「・・・ら」を付けて複数を表す事が多いですが、「・・・たち」や「・・・ら」が付けられる言葉は限られています。一般的に、これらは動物以外のものには付けません。「車たち」「車ら」はおかしいです。また、「家」とか「国」などを複数形にするには「家々」、「国々」のようにしますが、それが出来る言葉も限られています。「車々」とは言いません。
英語でよく“governments”や”problems“という表現が出てきますが、日本語の「政府」「問題」には複数形がありませんので、複数のニュアンスを出すには、かなり工夫が必要です。例えば「各国政府」「諸問題」のように訳すことも1つの方法です。
このように、世界の言語の中には複数形が存在するものと存在しないものがあります。その理由に関しては、こんな説があります。私は専門家ではないので、その真偽のほどはわかりませんが、なかなか面白い考え方だと思いました。
その説とは、狩猟民や遊牧民をそのルーツに持つ民族の言語には単数形、複数形が存在し、農耕民をルーツとする民族の言語には、単数、複数の区別が曖昧である、というものです。つまり、獲物を狩りに行くとき、何頭の獲物を獲るには何人の人員が必要かということを常に意識している、あるいは羊などが何匹いるということを常に意識していると、単数、複数の感覚が発達し、言語にもそれが反映される。その反対に、1年の収穫が全体として存在し、それを順に食べていっている民族では、単数、複数が明確でなくとも暮らしに差し支えないので、その感覚が発達しなかった、ということです。
言語はその属する文化と密接に絡み合っているので、民族の生産形態も、当然、言語の形成の際に何らかの影響を及ぼしたのでしょう。話をするときに、単数を使うのか複数を使うのかを一々意識してしゃべっている人たちと、そんなことを何の意識せずにしゃべっている人とでは、おそらく、その見えている世界も違うのでしょう。” There is a cat on the sofa.”も”There are cats on the sofa.”も、日本語では「ソファーの上に猫がいます。」となり、日本人にとっては一匹であろうと、複数であろうと、言語上、どうでもいいことなのです。聞き手が勝手に想像します。それに比べ、英語の話者にとっては、言葉を発する前に、何匹いるかを意識しなければ文章を作ることが出来ません。話し手のほうに、明確に伝える義務があるのです。
単数、複数の問題も、通訳をめぐるトラブルになり得ます。ある日本人が「ソファーの上に猫がいます。」と言った場合、通訳者は、それが1匹なのか複数なのか自分で決めた上で英語に訳さねばなりません。このように、通訳者が、自分の判断で情報を明確化してしまうということは、場合によっては、非常に危険なことだと言えましょう。
ところで、単数、複数に関してですが、同じ日本語なのにとても妙な思いをしたことがあります。私が子供を連れて京都のあるお宅を訪問したときのことです。お茶を出されたときに、「お子達は、ジュースのほうがいいですやろ。」と言われました。私の子供は一人だったので、なぜ「お子達」と言うのかわからず、他に子供がいるのかなと、思わず周囲を見回してしまいました。京都のお年寄りがよく使う「お子達」という表現は、一人であろうと複数であろうと構わないようです。おそらく、一種の婉曲法で、一人の人間をはっきり指すのを避けているのだと思います。はじめて聞いたときはびっくりしましたが、今では、京都らしい味のある表現だと思っています。
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Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


 
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