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Makiko Mizuno
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 「異文化伝心」 その(1)
反省する被告人、反省しない被告人

 日本の法廷では、被告人が反省しているかいないかが大いに問題視されます。法廷とは人を裁く場であると同時に、人に反省をうながす場でもあるのです。ですから、裁判の終わりに裁判長が、「被告人、最後に言いたいことはありますか。」と聞きます。ここで期待されているのは、「本当に申し訳ないことをいたしました。もう二度としません。」という反省の言葉です。それがないと、裁判が終わった感じがしないのです。
 大阪教育大付属池田小学校での、あの悲惨な児童殺傷事件の犯人であった宅間被告は、法廷で一度も謝罪したり、反省の言葉を述べたりしませんでした。この「反省をしなかった」ということが新聞やテレビで大きく報じられ、日本人の多くが憤慨したことは記憶に新しいと思います。ところが、この「日本人の常識」は、必ずしも他の国々の常識ではありません。
 日本の裁判で、こんなことがありました。
 ある時、アメリカ人の被告人に裁判長が「被告人、最後に言いたいことはありますか。」といういつもの質問をしました。アメリカ人は、「ナッシング(何もない)」と答えました。それを聞いた日本人はみな、「被告人は反省の言葉も口にしないで、ふてぶてしい態度を取っている」と思ったのです。ところが、その話を聞いたあるアメリカ人がこう言いました。「彼が最後に何も言わなかったのは、もしかしたら最大限に反省していたのかもしれないよ。」
 アメリカでは、日本と違って、裁判とは有罪か無罪かを争う場です。日本のように、自首しようが自分から有罪であると認めようが、とにかく裁判が行われるというシステムを取ってはいません。アメリカでは、自分が無罪だと主張する人に対して、有罪を主張する検察を相手に自分の言い分を提示して争う機会を保障する場が裁判なのです。自分が有罪だと認めることは、裁判を受ける権利を放棄することになるのです。ですから、アメリカ人の常識として、裁判では、みな、最後まで自分を弁護するために戦います。謝ったり、「反省しています」などと言おうものなら、即、有罪を認めたことになってしまうのです。 
 そういうわけで、被告人が最後に「ナッシング」と言ったのは、「何もないよ」というニュアンスではなく、「もうこれ以上、言うことはありません。自分が悪かったのです」という意味だったかもしれなかったのです。もしそうであれば、通訳人がどう訳すかで、裁判官の心証が大きく変わってしまいます。「何もないです」とぶっきらぼうに訳すのと、「もう申し上げることはございません」と訳すのとでは、その与える印象がまったく異なります。通訳しだいで、反省していたかもしれない被告人を、ふてぶてしい奴だと思わせてしまうこともあるのです。
法廷通訳人は、オリジナルの発言の言葉とその精神に忠実に、その「等価物」としての訳出をする義務がある、とされています。言葉だけに忠実であっても、その精神が伝わらなければ正確な通訳にはならないのです。でも、発言の精神に忠実に訳すのはそんなに簡単ではないし、通訳人の勝手な判断で、逆の効果が生じる可能性もあります。
 正確な通訳をするためには、2つの文化をよく知り、発言の言葉の裏にある精神を汲み取り、両文化の間で慎重に比較検討をした上で、発言の真意を的確に伝えるという作業が必要になります。通訳人は大変難しい任務を担っていると言えましょう。 
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Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


 
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