スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Makiko Mizuno
スポンサー広告


べニース事件控訴審始まる
べニース事件の控訴審が6月2日に初日を迎えました。傍聴に行きましたが、大変驚かされることばかりでした。

第1審の法廷通訳の質が問題になって控訴された事件です。当然、控訴審については質の高い通訳人が選任されなければなりません。その適性について確認するために、弁護人が通訳人に対していくつか質問したいと求めました。それに対し、裁判長は、裁判所が適正であると認めた通訳人であるので、その必要はないと却下しました。最初から、裁判所が選任した法廷通訳には問題ないという姿勢を貫こうとしていることが明らかでした。

今回、私が通訳の正確性についての鑑定書を提出していますが、これについて検察側から答弁書が出されています。これについて、弁護人から「その内容の裏付けのために、検察側も言語の専門家の鑑定を依頼するのか」という質問がありました。それに対しては「ございません」との返答。弁護人が、専門家の鑑定に対する答弁であれば、やはり専門家の意見に基づいたものでなければ法的に問題があるのでは、と言いますと、裁判長は、「答弁書を受理しているわけではない。弁論として預かっているだけ」と述べました。

弁護人は、今回、他にも4通、言語の専門家の鑑定書を提出しました。これに対し、検察官は「必要なし」ということで証拠として採用することに不同意。「個人的見解」にすぎないから、という理由が述べられました。

今回の鑑定には、日本の法言語学の第一人者で博士号も取得しておられる先生をはじめとする、研究者としての業績も十分な方々も参加しています。内外の20年にわたる研究成果の蓄積から得られた知見に基づいた、科学的な鑑定内容です。このような、言語分析の専門家の鑑定書に対して「個人的見解」であると述べ、自分の答弁書も個人的見解だが、専門家の意見による裏付けは必要ないという検察側の理屈は、とうてい受け入れることはできません。

法医学鑑定や精神鑑定では、このような扱いをされることはありません。鑑定書の意見に対して「個人的見解」などと言われることはあり得ないし、それを退けるために法律家が自分の意見のみをぶつけてくることはあり得ません。必ず別の専門家の鑑定を依頼するはずです。

言語鑑定はどうしてこのような理不尽な扱いを受けなければならないのでしょうか。理由は簡単です。言語というものは、それを使える人は誰でもその専門家であるという大きな勘違いがまかり通っているからです。言語を使えることと、言語の仕組みや言語の及ぼす影響について解明することとは全く別物だという認識がないのです。

欧米諸国では、言語学者の専門家証人としての立場は確立しているし、そのシステムが非常にうまく機能しています。もちろん、そうなるためには様々なハードルをクリア―してきたことは間違いありません。

法廷通訳についても、世界の多くの国で、レベルの高い通訳人を保証する仕組みが作られています。それは、通訳をめぐる多くの不公正な裁判について問題提起され続けてきた結果です。特に陪審制度のある国では、陪審員の心証形成への通訳の影響についての豊富な研究データがあり、法律家もある程度それを尊重しています。このような点において、日本の司法制度の硬直化した姿勢は驚くばかりです。

人間を他の動物から分け、人間たらしめている重要な要素は言語です。法廷は人間を裁く場です。人間にとって最も重要な言語というものに対する感性があまりにも鈍い。それが現在の日本の司法制度です。


スポンサーサイト
Makiko Mizuno
Diary


 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。