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Makiko Mizuno
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異文化伝心(20)
現代医療と言霊(ことだま)の力 

 数年前、アメリカのワシントン州の医療通訳認定制度の調査のためにシアトル市を訪れたことがあります。海辺の風光明媚な町で、魚介類がとてもおいしい所です。また、シアトル・マリナーズの本拠地ですから、至るところにマリナーズ関連のグッズが売られています。一面が巨大なICHIRO選手の映像になっているビルもありました。

 ワシントン州はアメリカで最初に公的な医療通訳者認定制度が発足した州です。南米からの移民が多いのは他の州と同じですが、ベトナム、カンボジアなどのインドシナ難民の流入も多く、言葉の問題が深刻だったこと、また、州の経済事情が良好で、予算的に余裕があったことから、他の州に先駆けて医療通訳の体制を整備することが可能だったということです。

 さて、医療通訳の調査の中で、色々と面白い話が聞けました。医療通訳の世界では”Cultural Competence”(文化的な能力)、つまり、文化的な違いをよく知り、それをうまく処理する能力が一番大切だということを、関係者がみな強調していましたが、1つ興味深い例が挙がっていました。それは、ネイティブ・アメリカンのナバホ族のことです。

 通訳は、一般的に、一人称で話すことになっています。つまり、話し手が「私は・・・・・・しました。」と言えば、通訳者も、やはり、別の言語で「私は・・・・・・しました。」と言わなければなりません。通訳に慣れていない人は、このような場合、つい、「彼は・・・・・・しましたと言っています。」のように「報告形式」で訳してしまうことがあります。そのようなことのないように、通訳者は、ちゃんと一人称で訳すよう、訓練されるのです。

 ところが、ナバホ族の場合、そのようなルールを当てはめることは無理だということです。ナバホ族の間では、言葉は魔力を持つものであるという考えが根強く、言葉に出してしまうとそれがそのまま現実のものとなると信じられているのです。ですから、もし患者が「私は心臓が悪い」と言った場合、通訳者が「私は心臓が悪い」と訳すと、通訳者自身の心臓が悪くなると考えるわけです。そういう理由で、もし患者が「私の癌はよくなるのか」と言ったら、「この人は自分の癌がよくなるのかと言っています」というように、「報告形式」で訳すしかないのです。

 医者も気をつけなければならないことがあります。例えば「あなたの場合、手術をしても障害が残ることがあります」というように、その患者を対象に語ると、患者はそれがそのまま自分の上に降りかかると考え、恐怖を感じるそうです。このような場合、医者は「あなたと同じような問題を抱えている人の場合、手術をしても障害が残ることがあります。」というように、第3者のことを話しているような形を作らなければならないということです。

 この話を聞いて思い出したのが、日本の「言霊」(ことだま)の概念です。古代、言葉に宿っている不思議な霊力が働いて、言葉どおりの事が起きると信じられていました。日本のことを「言霊の幸ふ国」(ことだまのさきはうくに)、つまり、「言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国」と呼んでいたこともありました。

 今でも、私たちは、何か良くないことを想像し、それを口に出すと、なんとも言えない不吉な感覚に捉えられることがあります。口に出そうとして、ふと、ためらうこともあります。言ってしまうと取り返しの付かないことになるというような、漠然とした不可思議な不安を感じることがあります。言葉というものは、そういう意味で、不思議なパワーを備えたものです。

これは脳の仕組みとも関係があるようです。よく、強く念じたことは実現すると言いますが、人間は、何かを強く心に思うと、脳が、それが実現する方向に向かうための情報を選択して集めるらしいです。そして、何かを口に出すということは、自分の想念を明確にするということに他ならないのです。口に出すことで、自分の思いをさらに強固にするということです。このように考えると、言葉に表したことが本当に起こるという考えも、非科学的だと一概に決め付けることは出来ません。

 ナバホ族の場合も、近代的な医療機関である病院にやってくるのですから、現代医療を否定しているわけではないし、むしろ頼りにしているわけです。でも、「言霊のパワー」もまた、彼らにとっては、否定できない1つの真実なのです。私たちが「俗信」とみなしている事柄も、彼らにとっては根拠のある一種の科学かもしれないのです。

 先進的な医療機器に囲まれた診療の場で、医者や看護士が患者の文化をしっかり尊重している姿は、一種の感動を呼び起こします。そんな中で本当のコミュニケーションが生まれ、正しい診断と治療につながるのだと、アメリカの医療通訳関係者は口をそろえて言いました。
Makiko Mizuno
エッセイ(異文化伝心)


マカオの風景
12月8日から3日間、学会出席のためにマカオを訪れました。マカオは、街自体が世界遺産で、ポルトガル関連の多くの歴史的建造物があるということだったので、さぞしっとりとした風情のある街だろうと想像していました。ところが着いた途端、想像していたものとのあまりの違いにびっくりしました。街全体がまるでテーマパークです。ホテルはほとんどカジノになっていて、とにかく派手な形と色彩にあふれ、しかもクリスマスシーズンで、通りや広場がすべてイルミネーションであふれていました。
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セント・ポール寺院の遺跡も、その前の広場には数多くのパンダたちのイルミネーションが並び、そのミスマッチには笑うしかありません。日本では考えられない光景でした。高台には古い砲台がありましたが、大砲の砲身の先には、町で一番目立つリスボア・ホテルの偉容がそびえ、これも一種のミスマッチです。
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マカオの「食」ですが、ポルトガル料理をマカオ風にアレンジした、いわゆるマカオ料理が有名です。最も人気があるらしいレストランを選んで、2晩続けてマカオ料理を楽しみました。カレー・クラブ(蟹)が有名らしいけれど、カレーはちょっと…と思い、他のカニ料理を注文しました。当然、蟹がそのまま出てくるかと思ったら、想像もしていなかった姿の蟹が現われました。甲羅に蟹の身を詰めて揚げたもので、まるでコロッケです。ご丁寧に、まるで目のようにオリーブをあしらった姿は、とてもコミカルでした。
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マカオ名物のエッグ・タルトは、ガイドブックなどでも取り上げられている有名なカフェ・エ・ナタ(http://www.analatte.com/lattespecial/71/spot7.html)で食べました。足を踏み入れるのを一瞬ためらうような、とてもきれいとは言えない下町の路地裏にこのお店を見つけた時には、またしても、そのミスマッチに驚きました。でも、エッグ・タルトは確かに美味でした。
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マカオには、様々な要素がミックスされています。ポルトガル時代の建造物の明るいパステルカラー、中国風の赤や緑の色彩、そして多くのカジノの派手派手しい形と色と光、そこに今はクリスマス・イルミネーション。これらが狭い街にひしめき合っているのです。


Makiko Mizuno
エッセイ(一般)


ベニース事件、控訴棄却
10月22日にベニース事件の控訴審の判決が出ました。予想通りの控訴棄却です。審理を通して、裁判所が通訳問題に対し、どのようなスタンスを持っているかがよくわかりました。

初日に弁護人が、控訴審の通訳人の質を確認するために、通訳人に対していくつか質問したいと裁判長に許可を求めました。裁判長は「その必要はありません。裁判所が選任した通訳人ですから、能力に問題はありません。」と言い切りました。裁判長のこのセリフで、この裁判の結果はすでに明白となりました。「裁判所が選任した通訳人に問題はない」ということは、この裁判の第1審の通訳人も裁判所の選任によるものであり、それも問題はないと暗にほのめかしているようなものです。すでに結論は出ていたのです。

通訳の正確性に関する鑑定書は、そのほとんどは「必要なし」「不適切」とされ、証拠として検討されることもありませんでした。何度も繰り返しますが、鑑定内容に対する批判があれば、他の専門家による鑑定を行わせ、法廷で通訳の正確性に関する科学的かつ実証的な鑑定論争を行うのが通常のあり方だと思いますが、それすら行われず、法律家の単なる「考え」に基づき、すべてが否定されました。

私たち「法と言語」の研究者がいくら研究成果を出しても、法律家が一切耳を貸さないのであれば、研究成果を社会に還元できません。これでは何のための研究なのかと、大変に落ち込みました。

取り調べの可視化の研究で大変著名な、成城大学の指宿信教授がこの顛末についてメールで以下の趣旨のコメントをくださいました。

司法の現実に向き合うのは一筋縄ではいかない。心理学者たちにとっても長い道のりだったが、足利事件のように15年前の鑑定が正しかったということが証明されることもある。気を落とさないように・・・。

大変心に沁みるお言葉です。少し希望が出てきました。




Makiko Mizuno
Diary


ベニース事件のその後
本ブログでも何度か取り上げたベニース事件が結審し、あとは10月22日に予定されている判決言い渡しを待つだけです。

この事件では、第1審の通訳の質が問題になり、複数の専門家による鑑定書が提出されたことが特徴でした。ところが、この数ヶ月間の控訴審を通して明らかになったことは、裁判所は法廷通訳問題については、完全に「見ざる聞かざる言わざる」の姿勢を貫くことにしている、ということでした。通訳問題を議論することは不必要かつ不適切だとされたのです。

弁護人による被告人質問でも、通訳をめぐる問題に触れることが厳しく制限され、通訳が問題になったから控訴された事件で、被告人に対し、通訳について質問できないという、普通の感性の人間にはとても理解できない状況になりました。

鑑定に関してですが、最初の鑑定書は控訴趣意書とセットで提出されたので、かろうじて証拠として認められましたが、その鑑定書に対する検察側の意見書が出され、それが言語学の専門家の目から見たら、全く的を射ていない内容だったので、さらに、複数の別の専門家による鑑定書が弁護側から出されました。それは、最初の鑑定書の内容を強化するものでした。

ところが、検察官は、それらの鑑定書を一切証拠として認めないという姿勢を取りました、その理由には、鑑定に関わった私たち専門家は唖然とするよりほかありませんでした。

まず、鑑定人たちは同じ学会に属し、活動をともにしているから不公正な集団であるというのです。同じ研究分野の人間が同じ学会に属することはごく当然です。学会そのものに鑑定が依頼されるケースもあるのですから、そのような批判は的外れです。

それから、鑑定人たちは学識経験者ではなく、内容も個人的意見にすぎないとされました。法と言語の分野で私たちが学識経験者でないとすると、誰が学識経験者なのでしょうか。そのような無理な理由をつけて鑑定書を否定するよりは、別の専門家に鑑定させて、堂々と対決すればいいと誰もが思うことでしょう。私たちも、他の研究者によって、より高度で科学的なエビデンスをもって、私たちの鑑定結果が否定されたのであれば、同じ研究者として、それを喜んで受け入れたでしょう。

さらに、検察の言い分では、私たちが指摘している第1審の通訳エラーは、すべて「意訳」の範囲であるということでした。法廷で認められる「意訳」とは、「目標言語で意味が通りやすくするために表現方法は変えても、原発言の情報の内容と密度は変化していない訳」です。ベニース事件の第1審の通訳は、その「意訳」の範囲に収まるようなものではありませんでした。検察側が「意訳」であるとするなら、法廷通訳における「意訳」とは何か、専門家による検証を求めるべきだったと思います。

言語に関わる証拠に対する検察の姿勢は以上のようなものであり、私たち研究者には信じられないことばかりでしたが、今、大変問題になっている特捜検事証拠改ざん事件の例を見ても、日本の検察にとっては、言語学の専門家たちを貶め、その学識経験を土足で踏みにじることぐらい朝飯前なのだということがよくわかりました。本当に恐ろしいことです。

さらに、鑑定論争どころか、法廷通訳に関する話題は絶対に避けるという裁判所の姿勢は、あまりにもいびつで、日本の司法には本当に正義はあるのだろうかと、非常に不安になります。

司法とは秩序を守るために存在します。全体の秩序を守るためには、個々の正義を犠牲にしてもかまわないという考えが主流であり、それをよしとしない裁判官は異端者だとされるのが現状だと聞いたことがあります。通訳問題にメスを入れることは、おそらく大変な資金とエネルギーを要することでしょう。ある意味、秩序を乱すことになるのかもしれません。でも、世界の多くの先進国は、それをきちんとやっているのです。

今回、通訳の問題がこれほど明らかな証拠として示された事件においても、それが議論すらされなかったとなると、今後、通訳人が、有罪が無罪に変わってしまうほどの大失態をおかさない限り、通訳問題がまともに取り上げられることはおそらくないでしょう。これが日本の法廷通訳をめぐる現状です。


Makiko Mizuno
Diary


出版のお知らせ
『実践司法通訳…シナリオで学ぶ法廷通訳(裁判員裁判編)』(現代人文社)という本を出版しました。

覚せい剤取締法違反の模擬裁判のシナリオを中心に、裁判員裁判をめぐるさまざまな状況や問題点を、法律家と言語学者、通訳の専門家からの視点から解説したものです。

第1部は、模擬法廷のシナリオ、第2部は被告人質問の通訳に関する解説、第3部は裁判員裁判と通訳に関する各論、という構成です。

実際に法廷通訳をしている人、これからやって見たいと思っている人、そして通訳をより効果的に使いたいと思っている法律家にとって、大変役に立つ内容だと思います。

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